昭和四十五年五月二十六日 朝の御理解


 御理解第二節
 「先の世までも持って行かれ子孫までも残るものは神徳じゃ。神徳は信心すれば誰でも受けることが出来る。みてると云う事がない」


 神徳とはどういうものかと。神徳とは何ぞやと云うなかなか、神徳とはこういうもんだと説明が出来ない程に実は難しいものとだと思いますね。
 久留米の初代なんかは御神徳とは神様の御信用じゃと説いて居られます。神様の御信用とはどういう様な事かと云うことになる訳ですけれども、確かに神徳を受けると云うことは人間の一番幸せな生き方が出来れる事だと思います。
 神徳は信心すれば誰でも受けることが出来るとまあ云うなら簡単に言うて居られますけれどもあちらは信心しござるから御神徳を受けなさったと受けてござるなと思われる様な人は実に少ない。だから問題は信心すればと云う事が只神様に参って居る拝んでおると云うことが信心ではないと云うことが云えます。又信心しておかげを受けて居ると云うだけではそれはここで云う信心ではない。信心とはやはり何処までも信心神様を信じて疑わない心であり、信心とは信心を頂く様になり良い信心とはそれは真心であり信心とはやはり神心でありいわゆる神心である。そういう過程をま、さして頂いての信心、ね。だから信心とはその例えば三つの信心、真心、神心と申しましたがそういう信心の過程を一つにしたもの、信じる心もいよいよ強うなり真心もいわゆる真心一途の人になり、ね、いわゆる自分で自分の心を拝みたい程しのですいわば有難い心、いわゆる神心、その神心そういう心の状態にですね御神徳は誰でも受けることが出来るのである。
 又信心とは、宗教とはでしょうねえそれを教える。そうなって行くと云うその道を付けて下さるのが私は宗教の持つ使命でもあると同時にまあ宗教の持つ一つの教え、ね、宗教のいわゆる教えと云うのは神徳を受ける為の教えと云うてもよい。それを私共がね、おかげを受けると云うところまででしまえておる人がもう殆どいわゆる沢山な事だと云うことになります。信心すれば誰でも御神徳が受けられる。ところが実際信心しとるけれどもなら御神徳をらしいものを受けとる人は無いです。過去現在を通してですよ、まあ熱心な信者さん方を私共随分知っとります。けれども御神徳を受けてあるとは思われない。ですから只その人がしてござるごたる信心は御神徳が受けられないことが分かる。信心すれば誰でもと仰る信心とはその信心真に信ずる心とあるその内容と云うものは信心、真心、神心ね、そういうものが求められる。真心神心、それもですね私共がその本気で信心いわばお徳を受けさせて頂く、徳を受けさせて頂くと云うことなんですけれどもほんとの信心に姿勢を変えてまいりますとそれはいつの間にか真心になりいつの間にか自分で自分の心が拝みたい様に段々ならせて頂いてそしてこれが神心と云うものであろうかと自分の心の中に思わせて頂く程しの心が育って来る。何時とはなしに信心の姿勢と云うものが作れる。けれども只おかげのところへの姿勢であってはね、おかげにゃならん。いやおかげにゃならんと云うのは御神徳を受けると云うことにはならない。
 実を云うたら御神徳と云うものは私共の周辺ね、まあ中身にでもいい御神徳の中に実は私共は浸っているのだ。浸っておりながらそれを受けることも出来ないで居ると云うのが私共の姿ではないだろうかと、ね。
 御神訓に「疑いを放れて広き大道を開き見よ。わが身は神徳の中に生かされてあり」とわが身は神徳の中に生かされてあるんです。もう御神徳は私共の周辺に満ち溢れて居る。その御神徳に依らなければ私共は生きて行かれないのである。
 それも昨日頂きました様に「疑いを去れよ」とこおう仰る疑うてかかれば何が神徳かと云うことになる。けれども疑いを放れて広き真の大道を開いて見た時にわが身は神徳の中に生かされてあると云うことが分かる。ね、全てが神徳の現れと云うことが分かる。その分かるとこまではみんながまあ云うなら誰でも分かるところなんですね、御神徳の中に生かされてあると云うことは神様のお恵の中に生かされてあると云うことは分かる。だからそのそれをほんなら自分の身に頂いて行こうとするとそれはなかなか難しい。だからそれを難しい難しいと云うとりゃ御神徳は受けられん。信心すれば誰でもおかげを受けられると仰る程しの御神徳、もうここに御神徳は溢れて居る。ね、その御神徳を受ける為に私共が信心にならなければならない。いよいよ真心にならして貰いいよいよ神心が篤うなってくる。いよいよ神様を信じて疑わないそう云う心の状態、そういう心の状態に御神徳が受けられる。そこで私共はまあ幸せを願っての勿論信心の事ですから為にはね先ず私共がこういう様な事を精進しなければならないと云うことになる。
 御理解三十五節に「信心は日々の改まりが第一じゃ。毎日元日の心で暮らし日が暮れたら大晦日と思い、夜が明けたら元日と思うて日々嬉しゅう暮らせば家内に不和はない」と
 私は金光様の御信心をさせて頂く者の精進と云うのはここだと思うですね。いわゆる信心は日々の改まりが第一じゃと、日日こうやってみ教えを頂かせて頂いて、はあほんとにあすこのところが自分が間違っているな、ここんところは改めて行かなければならないなとその自分の改まっていかなければならないことに焦点をしてそして改まる精進そこから自ずとですね私は毎日元日の心で暮らせる様な心が頂け日日を大晦日の様な思いでおかげを頂かせて貰うことが出来る。
 家内に不和が無いと云うのは勿論、家内に不和が無いと云うことは私自身の心の中に不和が無いと云うこと。私の心の中が穏やかであると云うことだと思いますね。それが家内に不和が無いと云うことに繋がってくる。
 余りにも簡単に神徳は信心すれば誰でも受けることが出来る、ね、けれども私共がです過去現在を通してお道の信心をさして頂いて居る人達が皆それがそうに神徳を受けよんなさるじゃろうかと。あれが神徳を受けた姿であろうかと云う様なもう極稀である。してみるとそういう信心ではお徳が受けられないことが分かる。そこで信心すればと仰って居られる信心とは、ね、只拝むとか参ることがおかげを受ける為という信心ではないことが分かる。ね、
 そこで信心すれば誰でも受けることが出来ると云う信心とは、信心、真心、神心と云う風にいわば簡単に今日は申しましたですね。真心まごころが篤うなる、そのそういう真心とか神心を追求と云うかその為の精進がです日々の改まりにあるのです。御理解三十五節ね、信心はもう日々の改まり、もうこれだけ改まったからこれでよいと云うことはない、きりがない。信心は日々の改まりが第一である。お互い信心日々の改まりと云うこと、毎日毎日を元日と思え、日が暮れたら大晦日と思うて日々嬉しゅう暮らさせて頂けれる生活を目指しての信心修行と云うことになる訳です。成程金光様の御信心は生活宗教だと云うことが分かりますね。山に隠って断食をしたりね、お滝の水を頂いて拝むと云ったことではなくて、この方の行は家業の行と仰せられる様に生活の中にそういう信心真心神心が生活の中に入って行く、にじみ込んで行く様な信心でなからなければならないと云うことが云えます。
 そこで一つその御神徳を受けて行くと云うことについてのまあ具体的な例を以って申しましょうかね。だからここで云われて居ることはおかげだってやっぱおかげの受け物が要りますよね。
 昨日久富繁雄さんがお届けをして居られますのに、自分の前からですねブーッとなら向こうから壁を突きほがす様にお水が自分の方へこうやってどんどんぶつかって来るところを頂かれた。まあお水をお恵とするならばそういう素晴らしいお恵の水をですね身にかかる程しに受けて居るけれども、さぁ繁雄さんそこでいっちょこのお恵の水を受け止めれる受け物が必要だねと云うて話したことでした。どんなにんならお徳がこの私共の周辺に一杯満ち溢れて居ってもです、それを受ける受け物と云うものが大事なんです。一様にお徳を受けると云う事もお徳の受け物が必要だと云うことが分かります。だからお徳と云うのは信心したからすぐと云う訳にはいかないことが分かります。おかげは信心をする、お願いをするすぐにでも見ることが出来ますけれども御神徳と云うのはそんな訳にはいけん云うことが分かります。ね、はああれ程の信心さっしゃるとにどうしてあげな難儀なことが続くじゃろうかと云う様な人達があるでしょう。ね、云うならば神様はさ本気で御神徳の受け物御神徳を受けさして貰うその御神徳の受け物をしっかり作っておけよと仰って居られることなんですよ云うなら。ね、ですからそこのところをです,私共有難いと思うて今こそ御神徳を受けさして貰う受け物が出来て居る時と思うていわゆる信心辛抱して行かなければいけん訳です。
 昨日婦人部会、でなく壮年研修会がございました。私半ばから入らせて頂きましたがテーマになりましたところがですね今日この御理解を頂いてみると、はあ昨日はおかげを受ける受け方、生き方とお徳を受ける受け方がこの様にあるなと云うことを昨日話した様に思うんです。ま、昨日は申しませんでしたけれど折角受けるならそういうお互いが肉眼的おかげよりかね、心眼的おかげ心眼に見るところのおかげを受けなければならない。それにはまあ今日の御理解から云うと御神徳を受けていく受け方になるのだと云う事が云える。 昨日ここの若先生が私の代わりに参りましたが久留米の東町教会の田中先生の病気見舞いに参りました。それから夕方からは総代会を代表して永瀬さんが同じく田中先生のお見舞いにおいでられました。もう非常におかげを受けて居られて血色も良くってねもう非常にこの元気になって居られると云うことでございました。病名は直腸癌です。ですからどっかこの辺のところを開けて大便をこう排拙すると云う様な大変なことらしいですね。もう癌と云やあもう聞くだけでまあ命取りの病気なんですけれども、それが非常におかげを頂いてですねそれを見舞いに来た人達に話して居られる。と云うのがね、ほんとにねあのういよいよこういう難儀な病気になってみて病気の苦しさと云うなら健康な時の有難さと云うものがしみじみ分かる。とりわけね、とりわけいわば先生がもう六十幾つでしょうかね、六十何年間と云う長い間ねいわば大便の排拙させて頂くために肛門を通って大便の排拙のおかげを頂いて来て居るがほんとに当り前の様に思うて居ったと。肛門を使うて肛門から大便が排拙されると云うことに対するお礼がね、足りなかったお詫びを心からさせて頂いたと。私共もそうですよねえ、大小便に行くたあもう当り前のごと思うとるけれどもさぁ実際大便が出らんちゅうごとなったらこげんとこばほがしてから出さなきゃならない程しのその肛門の有難さ肛門があると云うことの有難さと云うものを何十年間気も付かずに居ったことを相済まぬと思うて神様にお詫びを心からさして頂いたとこう。そしたらね、翌日からここから出て来る大便がですねもうそれこそもうめいじょうし難い程しのもう何ともかんとも言えんごたある真っ暗い大便をどんどんひかれるようになったそうです。それからね非常に爽快になられましてね、いわゆる血色が良くなり御飯が頂けるようになると云う程しにまぁおかげを受けて居ると云う話をみんなが聞いて来て居ります。真に有難しと思う心すぐに御影の初めとこう。だから私共がですね、その真に有難いと思うと云う事です。そこから例えばおかげが頂かれると云うこと。田中先生が初めて何十年振りに肛門に対するお礼ね、又は今までお礼も言わずに使うてきたことのお詫びをですされたらそれが云うならば天地に通じた。そこからどうにもいわゆる体内の悪毒とでも申しましょうかね、そういう物がそこからどんどん排拙される様になり気分が爽快になり御飯がいけるようになりもうじっと歩かれるようにおかげを頂いて居られると云うことなんです。これはねあのうお互いの信心によりましてもそうですおかげを受けると云うことはね。
 例えばお金にもうこん限り不自由しておる人が金銭のお繰合わせをお願います。ね、そしてほんに今までは沢山のお金に不自由したこともなかった者が途端にこういう貧乏になってお金の有難さが分からせて貰い、ね、ほんとに例えばない為に借金もしなけりゃならない借金をすれば断わりにも行かにゃならん、払えりゃいいけれど。その借金の断わりに行く事のその苦しさ悲しさもうほんとにこの度おかげを頂いてお金のお繰合わせを頂いたらもう金輪際無駄に使う様なことはせんぞと思わせて貰うて今まで永年の間お金に対するいわば有難さのなかったお礼も申し上げなかった、当り前のようにして湯水の様に使うて来たことの時代のことを心からお詫びをさせて頂いた。ね、そこからおかげを受けると云うケースは沢山あります。おんなじでしょうね、だから。ねえお金にいよいよこん限り不自由して居る。その不自由な時にです神様に万事どうぞ金銭のお繰合わせをお願いします、金銭のお繰合わせをお願いしますと云うて願うばっかりじゃなくて願わせて頂くと同時にふっと気付かせて頂いた過去に金銭のお粗末な使い方の御無礼をです、神様この度又おくりあわせお金のお繰合わせ頂いたらそのお金は本当に神様に喜んで頂ける様な事にしか使かやしません。自分の我情が我欲の為にお金を浪費する様な事は致しませんと云う様なものの見極めが着いた時ですね神様はほんとにお繰合わせを下さるんですよね。だからその体の上にだって経済の上にだっておんなじだと云うことが分かるでしょう。ね、けれどもねそれは何処までもね、おかげを受けると云うことだけにしかならんのですよ。ね、だからおんなじ金が足りんなら金が足りんで難儀苦労しておる時、それこそ生きるか死ぬかのと云う大病の時にです、ほんとに日頃健康のお礼の足りないこと、それこそ何十年間肛門を使うて来たことに対してお礼もお詫びもしてなかった事に気付いてお礼を云うたりお詫びをする気にならせて頂いたらもう体の上に早速神様の働きが表れておかげを受けることになってきたと。但しそういう事ではね、おかげを受けると云うことだけにしかならないのだと。ね、そこで私が何時も申しております様にね、おかげを受けると云うことはそういう所から真に有難いと云う心が生まれて来る。そのおかげにいわば繋がっておかげは頂けるけれどもそれではね、お徳は受けられないと云うこと。ね、
 私が一つ話の様にして私のまあ何と申しましょうかね、借金を負い被っておる時分のことです。それでも借金を払いに行く払うお金がないからやっぱり断わりに回らなければならん。借金を断わりに行くと云うことはね、二へん三へんのすらごとならいいけれどもそれが度々重なるとそう度々嘘ばっかりも言われん。もうそりゃほんとに成程四百四病の病より貧より辛いものはないと昔から云うてあるがこげん辛い事はないです。そういう時になら私はですね、ほんとにこれから金銭のお繰合わせを頂いたら金持ちになってもお金は無駄には使わんと云う様なことではなくて私の場合はそれはその場合どういう事であったかと云うとですね、神様がこんなにして私にね力を付けて居って下さると私悟ったんです。云うならばです、その難儀を通して神愛を悟ったんです。神様がこの様にしてお徳を下さろうとする働きを知った訳です。そこから元気が湧いてきた。そこからおかげを受けて来た。同じ例えば金銭なら金銭、カードならカードの上にでもですね、どんな例えば大病した時に成程健康の時の有難さお礼とお詫びの足りなかったことを気付かせて貰う事も大事な事です。それは大愛神様の愛を悟ったその一分の中身一分のことである。ね、そこのところがです、なら肉眼をおいて心眼を開かなければその神様の御神意云うのが何処にあるのか分からんのです。神様のほんとお御神意と云うのは神の思いをほんとに分かって呉れ、大愛を知って呉れ悟って呉れ、ね、そこにはですねもう難儀と云うものは無くなっていく訳ですよ。それは肉眼で見ると難儀の様に見えるけれどもそれは難儀ではない神の大愛の云うなら現れなんだ。御神徳を下さろうとする神様の働き以外には無いのだと。只病気を全快してやるおかげのお繰合わせを下さろうとすると云うそんな小さいもんじゃないと云うこと。だからそういう難儀に直面した時にその難儀を通して私共が肉眼をおいて心眼を開かせて貰う修行、そこには難儀はない、あるものは神様の神愛だけだと云う様な頂方。そういう頂方の上にこれはおかげではなくて御神徳を受けて行くことだと云うことなんです。そりゃまあこの事を具体的に云うと限りが無い、具体的に色々お話が出来ると思うんです。只おかげを受けると云うだけではなくて一つの難儀一つの問題でもですその問題を通して甲の人はそこを通り抜けるだけのおかげを受けたと云うことになる。乙の人はそんな同じ難儀なことに依って肉眼をおいて心眼を以って見せて貰ったところにですね、その人はそれがその侭お徳になると云う様な事になってくる。神徳は信心すれば誰でも受けることが出来る。その神徳を受ける為には受け物が要る。神徳を受ける受け物、ね、それを私は前半に申しました疑いを放れてと云う実は神徳の中に私共は浸っているのだと、それを私共頂いて行く為にはやはり私共が信心真心神心とね云うことに御理解三十五節に纏めて「信心は日々の改まりが第一じゃ、元日の様な心で毎日暮らせ、日が暮れたら大晦日の様な思いで暮らさして貰え。そこには自分の心の中には不和がない、家庭に不和もない」そういう例えば信心修行それを金光様の御信心は成程生活信心だと云うことが分かる。生活の中に私共は生き生きと御神徳に触れて行き御神徳を受けて行くところの行があるんだ。ね、その行の在り方と云うことについて今具体的な例を以って申しましたね。同じおかげを受けるでも只死を の所に云うならば気付かせて貰うて有難いと思うただけでもおかげは受ける。ね、けどもそういう例えば難儀苦労の中にです、ね、いわゆる心の目を以ってするとそれは難儀でもなからなければ苦労でもないそこには神愛あるのみだと云う風に心が開けるところからです、元気がいよいよ湧いて来るしそういう受け方こそです御神徳をその侭受けることが出来ると云う、御神徳とはその様な風にして受けて行くものだと云うことを申しました。どうぞ。